2020/09/11
法人?大学

9月11日は「東京医学講習所」が開設された日 ~本学の校是に「奉仕」がある意味~

9月11日は、本学のもうひとつの「記念日」 ~本学の校是に「奉仕」がある意味~

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学祖 高橋琢也先生
※1930~1942年(昭和5~17年)卒業アルバムに使用

 「9月11日」は1916年(大正5年)、日本医学専門学校(現?日本医科大学)を総退学した学生たちと、それに共感した学祖 高橋琢也先生をはじめとした社会からの支援により、苦難の半年を乗り越え、東京物理学校(現?東京理科大学) 内に教室を借りて「東京医学講習所」を開設し、開所式を挙行した日です。

 本学建学の立役者である高橋学祖は、この建学に奔走した当時70歳でした。明治?大正時代の平均寿命が44歳だったことを考えると、幼少期に医師を目指していたことや、医学生の窮状に同情したという理由はあるにせよ、いかにバイタリティに溢れ、社会の正義のために力を尽くした人物だったかということがわかります。


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 土地も校舎も教員も何もない、まさにゼロの状態から出発し、正式な医学校を設立するという難事を成し遂げられたのは、高橋学祖をはじめとした社会から頂いた多大な支援のおかげであり、それに応え、社会に恩返しすべく、本学の校是には「正義」「友愛」に加え、他に類例のない「奉仕」という言葉が入っており、これが本学の精神的な支柱となっているのです。

 今回は、そんな学祖に倣い「自主自学」という建学の精神と「正義?友愛?奉仕」という校是のもと、自らの手で自らの人生を切り拓き、社会に貢献し、亡くなった今もなお語り継がれている本学卒業生を紹介します。

社会に貢献し、亡くなった今もなお語り継がれている本学卒業生

山田風太郎(本名:山田誠也) 作家

1950年(昭和25年)卒、2001年(平成13年)没

 在学中、懸賞小説で入選し、あちこちの雑誌に推理小説などを発表し始め、本学(当時の東京医学専門学校)を卒業するが医師にはならず、作家としてデビューした。1971年(昭和46年)、在学中の1945年(昭和20年)に書かれた日記が「戦中派不戦日記」として出版されると、純真な一青年の手による戦中?戦後の希有な記録として、また作家の知性と教養の深さを示すものとして、全国に大きな反響を呼び起こした。また、代表作に「甲賀忍法帖」(1958年(昭和33年)連載開始?シリーズ化)があり、没後2005年(平成17年)には映画化(映画タイトル「SHINOBI」)もされている。

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2003年(平成15年)出生の地、兵庫に「山田風太郎記念館」がオープン

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(写真提供:山田風太郎記念館

現在、講談社発行、週刊漫画誌「モーニング」にて『風太郎不戦日記』が連載中(本学が資料協力)

 山田風太郎が医学生だった1945年(昭和20年)に綴った『戦中派不戦日記』を勝田文がコミカライズ
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(写真提供:東京医科大学図書館

中嶋 宏 WHO(世界保健機関)名誉事務局長

1954年(昭和29年)卒、2013年(平成25年)没

 卒業後、本学神経精神医学教室(現?精神医学分野)に所属、その後フランス政府奨学生として留学し、パリ大学、フランス国立衛生研究所などで臨床研究に携わった。1974年(昭和49年)WHO(国際保健機構)に参画し、1978年(昭和53年)から1988年(昭和63年)の間、WHO西太平洋地域事務局長、1988年(昭和63年)から1998年(平成10年)の間、WHO事務局長を歴任し、WHO事務局長退任後、WHO名誉事務局長を受称された。日本人として初の国連機関代表に就任し、結核やポリオ(小児麻痺)などの感染症対策をはじめとした多くの公衆衛生分野において多大な貢献をされ、2000年(平成12年)には勲一等瑞宝章を受章された。

?中嶋宏?元世界保健機関(WHO)事務局長の御逝去に際し(厚生労働省HP報道発表資料)はこちら>>


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(写真提供:東京医科大学歴史史料室

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